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美濃国分寺縁起

美濃国分寺は、今からおおよそ千二百余年前、大陸より伝わった仏教が、当時の都、奈良付近だけしか信仰せられていなかった時・・・


 天平九年(737)、人皇四十五代聖武天皇様が、この尊い御仏の御教えを日本全土に広め、国民生活の安定と国運の隆昌を祈るため、古の国々に一ヵ寺あて、国分寺を建立しました。

 その国内の仏教伝道の先駆としようとの有難い御勅願によって、行基大僧正が勅を拝し、美濃国の国府、府中に近い青野ヶ原に来て、住民の除災招福を祈念し、自ら一刀三礼(一刀彫る度に三礼)、ケヤキの大木一本にて、一丈六尺(約4メートル)の薬師如来の尊像を彫刻して本尊となし、七町四面(東西231メートル、南北204メートル)の広大な境内に七堂大伽藍を建立し、仏教興隆の基盤、人心修養の根本道場とせられたお寺であります。

 当山開山行基大僧正は、伽藍の完成と仏法流布に専念せられ、天平十六年(744)奈良の良弁杉で有名な良弁僧正に第二世を譲られて、更に弘仁年間、真言宗祖弘法大師空海上人が当山第三世を継がれ、五ヶ月間法莚を開かれて「きゅうり加持」の秘法をのこされました。又その十大弟子の一人である智泉大徳に第四世を譲られるなど、当国最古の霊場であります。

 しかるにその後、幾度かの天災兵火のため、金銀山と称した程の壮麗な古堂や塔は、ことごとくその姿を失い、一時は荒野と化して、顧みる者もない有様でしたが、幸いかな本尊の薬師如来は土中に埋もれたままとなり、ようやく元和元年(1615)、真教上人という大徳が来られて、土中の御本尊を発見し、現在地に草ぶきの小堂を建て、その霊像を安置してから、美濃国総菩提所、総祈祷道場、魂の修養道場として、再び一国一寺の面影をとどむるにいたりました。

 本尊の薬師如来は、国の重要文化財で、ケヤキの一本づくりで出来ています。
右手は「施無畏の印」で、凡ての人々の悩みを包みこむようであり、左手には薬壷を持ち、その壷からは、拝んだ人に合った薬を出してくださるといわれています。目は半眼で全てを見通すようであり、肉太の鼻、肉感的な分厚い唇、あふれるほどの慈顔で、人々に安心感を与え、化益霊験いよいよ日々にあらたかであります。